• ベルリン案内
    • 「電車に乗ってベルリン観光をした」という話を詳細に飲み仲間に語って聞かせると、おもしろくないといわれる。「きみが、どう路面電車に乗ってベルリン水族館に行ったかなんてことを、誰が気にするのかね?」 それに対して語り手は、自分の記述のひとつひとつが未来の小説家たちが当時のベルリンを知るための史料であると考えている。「誰かの未来の回想をちらっと覗き見していたなんて、どうして彼に説明できるだろう」 ってゆうか、小説の描写自体、ふつうの生活の中で意識していないことから、作者が意識して選び抜いた事柄を書いているわけだし、ぼくたちが書く日記にしても、この『ベルリン案内』のレベルとまでは行かなくても、もうちょっと未来の読み手(つまり自分自身)のことを考えてあげると楽しくなるかもなーと思った。無駄に詳細に書き留める必要はなくても、やがて消え行くもの(それはすべてのものを指す)を思い起こすのに役立つ程度には。あと、路面電車ってこの頃からやがて消え行くものといわれていたのかと思うと感慨深い。実家近辺の路面電車も、消える消えるといわれながら未だ健在だしなあ。帰省のとき時々乗るのが楽しみ。
  • おとぎ話
    • この話とか『ロリータ』とか『魅惑者』とか読んでいると、ナボコフの「見る」というフェティシズムが滲みでている作品はエロいなーと思う。「欲望は、まずそばにあるものを見ることから始まる」と説いていたのは『羊たちの沈黙』のレクター博士だったと思うけれど、行き帰りの電車の窓から見える風景の中から脳内ハーレムに入れる女性を選んでいる内気な男という導入がエロすぎる。悪魔に出会って実際にハーレムを作ってやるからと唆されて、真夜中までに奇数のお気に入りの女性を集めて(見て)来るべく奮闘するエルヴィンさんの凝視ぶりがすさまじい。その変態チックな凝視は、最後の最後にちゃんとオチにつながっていて楽しいね。あと、悪魔がエルヴィンに送るそれとない合図が、実にさり気なく、欲望に狂ったエルヴィンさん以外には日常の風景にしか見えないところがうまいなーと思った。
  • 恐怖
    • ぼくたちの見ている世界は、いわばぼくたちという作者によって取捨選択がおこなわれ描写されている小説なのだけれど、世界から突然作者(主観)が失われ、目に見える風景すべてがあるがままに、つまり意味のないものに変貌してしまうという恐怖はナボコフならではなんじゃろか(なんかそんな感じのライトノベルを読んだような気もするが、覚えてない)。そんな恐怖に憑りつかれた語り手は、死の床にある恋人に会いに行く。彼女の朦朧とした意識は、彼女に語り手の姿は見せるのだが、目の前にいる「それ」を語り手だとは認識させない。語り手は、認識できない恐怖から認識されない恐怖へ突き落とされる。中島敦『文字禍』で、文字を意味あるものとして認識できなくなるような感覚が、全世界にまで敷衍しちゃうような恐怖じゃろか。『ベルリン案内』と対になってるような気もする。