ギョーム・アポリネール『ドン・ジュアン手柄話』 出帆社

ドン・ジュアン手柄話 (1975年)ドン・ジュアン手柄話 (1975年)
G.アポリネール 福富 操

出帆社 1975
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若いドン・ジュアンがものすごい勢いで周囲の女の人たちとセックスしまくる話。解説で、同じアポリネールの『一万一千本の鞭』と比較していたけれど、確かに比べると『ドン・ジュアン手柄話』はエロはエロでもエロいだけで、行きすぎたエロさがものすごい勢いで温かい笑いに到達した『一万一千本の鞭』の境地にまでは至っていないかんじ。

エロって難しいんじゃよねー。エロDVD見てても思うんだけど、セックス(てゆうか、性器)そのものを描写してしまうとみんな同じになってしまう。かといって、セックス(てゆうか、ちんこまんこ)を見たくないわけじゃなくて、むしろなければ不満に思う。セックスに至るまでの過程と予感こそがエロの本質だと言い切れる。過程や予感とは、たとえばセックスをする両者の設定だったり、両者の関係がどのような変化を経てセックスに至ったかであり、そうゆうのの描写は小説は適していると思う。セックスそのものの描写は、直截な描写を避け続けること(過程と予感を延長すること)に小説は適しているけれど、なんかモヤモヤする気持ちが残るが、そこがまたエロいのだと言い切れる。そう考えてみると、澁澤龍彦が「新鉢を割る」だの「埒をあける」だの「手遊びをする」だの、一見意味がわからんけれど文脈で読んだらそれだとわかる訳語を当てたのは、偉いしエロいなーと思った。

性に目覚めたドン・ジュアンが童貞じゃなくなるところまではおもしろいのだけれど(歳若いおばとの風呂場でのやりとりとかすごくいい)、あとは周囲の女性と当たると幸いにセックスするだけなのであんまりおもしろくない。しかし、おもしろすぎるオチにつながると考えれば、まあいいか。やりまくったせいで周囲の女性がみんな妊娠して進退極まったかに見えたドン・ジュアンがどうするのかと思ったら、ものすごい勢いでテキトーに誤魔化して、ものすごい勢いでそれが通ってしまうからおそろしいぜ。「ぼくはさらに他の子供を生みたいと思っている。そうすることによって、ぼくは愛国の義務をはたし、わが国の人口増加に一役を買うことができると思っている」 こんな能天気なオチ見たことねー! 

解説で、女性が類型的で、ドン・ジュアンが一度も失敗することなく周囲の女性とセックスすることを指して「モテなかったアポリネールが願望充足したかっただけなんじゃねぇの?!(ハルパゴス顔で)」と書いてて、そうかもしれんけどそんなこと言ってやるなよと思った。あと、アポリネールが恋人にあてた手紙がたくさん収録されていて、ナポレオンのラブレターを読んだときにも思ったけど、こんなの公開されたら死ぬしかないなと思った。うっかり歴史に名前を残すとおそろしいにゃー。