マーティン・ガードナー注 ルイス・キャロル作『詳注版 鏡の国のアリス』 東京図書

新注 鏡の国のアリス

新注 鏡の国のアリス

アンソロジー『モーフィー時計の午前零時』から始まって、ナボコフ『ディフェンス』と来て、私的チェス小説振り返りの〆としたい。さらにハーバード・リーバーマン『魔性の森』につなげるというコンビネーションもあるけれど、切りがない上に対局相手がいないのでこの辺で終わりにさせてください。

読み返すたびに『不思議の国のアリス』とどっちが好きなのか考えて、そのたびに答えが変わるのだけれど、今は『鏡の国のアリス』かなー。なにが起きるかわからない先の読めなさよりも、チェスという枠組みの中で精一杯ドタバタしてるところに惹かれる。

チェスという枠組みが与えられている中で、登場人物がみんながみんな(巻き込まれたアリスに至るまで!)チェスの駒としての役割を全うしようとしてるところが、完全に論理的に狂っていて楽しすぎる。

物語の登場人物たちが、与えられた物語の中で与えられた役割を演じるのは当たり前の話。ただ、自分が「物語の駒である」と自覚しつつ、自覚している役割がなんだか間違っていたとしたら。間違った役割を張り切って演じてしまったとしたら。

チェスに限ったことではなく、ゲームを取り込んだ小説は、ゲームのルールと小説のルールがせめぎ合い、せめぎ合うことでゲームと小説のそれぞれに隠されていたルールを浮かび上がらせる。

クーヴァーやミルハウザーの小説が好きなのは、小説以外のゲーム(ルール)を取り込んで論理的に狂っちゃった作品を書いてくれるからで、ミルハウザーが『不思議の国のアリス』に取材して『アリスは、落ちながら』を書いたのは納得できすぎる。

鏡の国のアリス』は、作者が同じであることは置くとしても、ナンセンスの集大成である『不思議の国のアリス』に対して、論理的に狂っていることでは最高の返答だと思う。