アンドルー・クルミー『ミスター・ミー』 東京創元社

ミスター・ミー (海外文学セレクション)

ミスター・ミー (海外文学セレクション)

一人称の語り手による小説が大好物なので、『ミスター・ミー』すなわち自分自身を語り騙る小説だなんて!

小説という形態のもっともおもしろすぎる特徴である、その小説を綴る「語り手」という形式上の決定的な特異点。事実を語っているはずが、思い違いや事実誤認、果ては意図的な情報操作を含めて、どんなに誠実に語ろうが誠実に語ろうとすればするほど浮彫りになる「信用の出来ない語り手」という問題を孕む、小説という表現形式の制度上の制限が好きすぎる。推理小説でいうところの「叙述トリック」が成立する、論理とその隙間の曖昧さこそが、小説の悩ましくも素晴らしい問題点だと言い切れる。

あえて一番信用出来ない「一人称」を選びつつ、「一人称の語り手」を複数設定して、ある程度共通した項目を「一人称の語り手」たちそれぞれが共有しつつ、「一人称の語り手」がそれぞれにそれぞれの生きざまを勝手に生きている好き勝手さやその結果が、まったく交錯しないようで微妙に関連しあっているのがおもしろすぎる。架空かもしれない『ロジエの百科事典』をめぐる、虚構かもしれない物語。つまり、渋谷という町で好き勝手それぞれに生きている様々な人間の人生が交錯するゲーム『街』と同じ仕組みで愛せる。

全編を支配するのは、「一人称の語り手」の危うすぎる危うさっぷりだと言いきれる。ミスター・ミーの芸術的なボケっぷり(客観的に見れば、女子大生に金を掴ませて風俗プレイをさせる好色ファック野郎糞爺なのだが、、ミスター・ミーの一人称からすれば「彼女はライフサイエンスの勉強をしてるのだ。もう役に立たないかもしれないチンコだが、使えるなら使ってください。がんばれ。家事の手伝い賃ははずむよ」となってしまう)に代表されるように、「一人称の語り手」たちはみんなあまりにも自分のことしか見てなさすぎ。客観的な視点=読者としては、「ミスター・ミー、うしろうしろー」と叫びつつ、「一人称の語り手」のものすごい視野狭搾ゆえのボケっぷりを堪能するしかないからおそろしいぜ。

エキセントリックな被害妄想に駈られて自滅したルソー、その自伝と言われる著作『告白』に出てくるわけのわからん人物であるフェランとミナールの人生を捏造しているところがおもしろすぎる。狂えるルソーが作り出した虚構の人物フェランとミナールがもし実在の人物だったとしたら、やっぱりルソーを狂気に追いやることが出来るぐらいエキセントリックな人間だったに違いないんじゃよ? これルソーを陥れるための陰謀なのじゃよー!高等法院はこのことを…(以下、妄想幻魔大戦)

結局最大の謎である『ロジエの百科事典』の謎は判明しない。捏造かもしれないし、実在するのかもしれない。インターネット上での冗談かもしれないことも暗示される。しかし、『ロジエの百科事典』を巡る各登場人生の大騒ぎは(作中では)事実であり、情報を巡る情報の錯綜っぷりがたのしいね。そもそも、ミスター・ミーが探し求めている『ロジエの百科事典』(ディドロダランベールの百科事典のと同時代という設定)という書籍は、書籍であるが故に、実在しようがしまいが書かれている内容は架空であってもおかしくない。存在しても存在しない、存在しなくても存在するという、書籍=情報が生来的に持つ虚構性がおもしろすぎる。「存在することは証明できるが、存在しないことは証明できない」という悪魔の証明は、情報には当てはまらないんじゃろか。