ウラジーミル・ナボコフ『目』 新潮社『四重奏/目』収録

四重奏;目

四重奏;目

ナボコフって、わりと同じネタを使い回す作家じゃよねー。短篇全集読んでから長篇読むと、未読の作品なのに「あれ、これって前にも読んだことあるような気がする」と変に記憶を刺激されておもしろい。ナボコフが「記憶の作家」だと言われる所以なんじゃろかー。未読の作品で既読のような錯覚を受けたり、既読の作品の形が別の作品を読むことで変化するところは、同じくネタを使い回す作家P・K・ディックと重なるような気がする。ディックも記憶をめぐる物語を書かせると抜群におもしろい。

スムーロフという名のありふれたファック野郎のファック野郎ぶりを描写しつづけるのが、「私」という一人称を隠れ蓑にしたスムーロフ自身だというところが変態すぎる。「私」は偏執的にスムーロフを描写するのだけれど、「自分自身を見る」ことは即ち「自分自身が見られる」ことであり、見ることによって見られる合わせ鏡の図式が、「私」=スムーロフになるのは納得のできることなのだ。

「私」によって都合よく描写されるスムーロフ以外にも、手紙の中にあらわれるスムーロフ、いろんな人の中のスムーロフ、スムーロフ自身がこう見られたいと思っている理想のスムーロフ、スムーロフの名前さえうろ憶えな人から見た脇役のスムーロフ、様々なスムーロフが万華鏡のように交錯していておもしろい。その人の名残をいろんなところに見つけてゆく『フィアルタの春』や、様々な人から見たその人自身を巡る物語『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』を重ねると楽しい。

自己言及に、他人を装おった視線を持ち込むと、ブログはやがてすべてがスムーロフの「目」になるのだろうか。読者と「私」の間にある無限の幻影を通して、彼(あるいは彼女)自身はあらわれるのだろうか。

スムーロフが、他人の手紙の中でスムーロフがどんな描写をされているのか気になりすぎる余り手紙を盗み読みし、「スムーロフには病的な盗癖がある」という文章にショックを受けるシーンがおもしろ悲しすぎる。僕たちは、もう僕たち自身を盗み読むことしかできない。