奥泉光『葦と百合』 集英社文庫

葦と百合 (集英社文庫)

葦と百合 (集英社文庫)

『モーダルな現象』を読んで、どんな話か忘れてたので再読。

再読なので、細部は忘れていても、グチャグチャになるところはだいたい覚えていてよかった。一応、体裁は推理小説なのだけれど、登場人物と読者にとって絶対確実唯一無二の解決には絶対辿りつけない物語。推理=虚構=物語=現実が入り混じる瞬間を堪能出来ておもしろいね。基本的に再読はしないのだけれど、大仕掛けのある小説は、巧妙に大胆に隠蔽されている仕掛けの痕跡を辿りながら読むと楽しすぎる。

『葦と百合』の大仕掛けのポイントは、登場人物がどこで幻覚キノコを食べているかだと言い切れる。そして、みんな幻覚キノコをモリモリ食べ過ぎであり、どいつもこいつもラリっていてまったく信用できないからおそろしいぜ。

『信用の出来ない語り手』という存在は、厳格にルールを定めないと成立しないミステリーにおいては甚だ扱いが難しい。ひとりだけならまだしも、登場人物それぞれがそれぞれに自分の見たい物語=推理=虚構を見ていると、それがそれぞれにとっての現実になってしまい、競合しあうはずの「真実」が並立してしまうからおそろしいぜ。

読者には、登場人物それぞれにとっては「現実」だが、しかし各々矛盾する「真実」がつきつけられる。『モーダルな現象』では、殺人事件の謎という骨組みのみキチンと機械的に解決して、あとの謎は登場人物それぞれにとって彼らにしか見えない物語=現実をそれぞれにそのままに信じていくという離れ業をやってのけていたけれど、『葦と百合』は謎すべてが放置プレイであり、「答えはみんなの心の中にある」であり、ものすごい放置っぷりが逆に好ましい。

岩舘家を悩ませる「儀エ門の呪い」に対する直也と有紀子の立場の相違がおもしろい。直也は愚直に資料に当たるべきだと説き、有紀子は口伝を顧みるべきだと主張する。「儀エ門の呪い」が、近代に捏造され、そのもっともらしい説得力で昔からあった物語として地域に組み込まれてしまったいう直也の分析はスリリングすぎる。直也は虚心に伝説を追ったが、結局彼の見てしまった真実=虚構に現実が飲み込まれてしまった。

一方で、明らかにやりすぎな本格推理探偵の役を果たしていた有紀子は、彼女が信じたかった本格推理小説の筋書きでしか世界を見ていないことが明らかにされ、様々な視点や思惑で推理と物語と虚構と混じってしまい収拾がつかなすぎておもしろすぎる。直也にしても有紀子にしても、また巻き込まれた傍観者である式根も、あるいはまったく別の場所で酒盛してる式根の友人ご一行にしたって、彼らが「語り手」である限り、彼らは彼らの物語から逃れ得ない。

なんかロブ=グリエ『消しゴム』を思い出すんじゃよねー。探偵が聞き込みをしていると、探偵と犯人があまりにもソックリすぎてほうぼうで目撃情報が頻発してギャワーてなるところは、なんとなく「儀エ門の呪い」があとから作られたのに昔からあったことになるところと似てる。