真夜中のカーボーイ

 ホモ好きの友人が大興奮していていたけれど、なるほど、そこはかとなくホモっぽい。ってゆうか、ジョーはホモ学生に映画館でちんこ吸わせてお金もらおうとしたり、ホモビジネスマンを殴ってお金強奪したりしているんだけど、リコとの肩を寄せ合うような生活のほうが直接描写がないのに(ないから?)はるかにホモっぽい。テキサス馬鹿丸出しのジョーの世話を甲斐甲斐しく焼くリコは、まるで恋女房。ジョーが最初のおばさんとはうまくやれたのに、リコと組んで初めて引っ掛けたおばさんとはなかなかうまく出来ずに「あなたゲイなんでしょ?」と言われて出来るようになるところも象徴的なのか?
 ジゴロになることを夢見てテキサスからニューヨークにやってきたジョー(カウボーイルック)と、体を壊していてフロリダに行くことを夢見ているリコの生活がおもしろい。ニューヨークに憧れている若者と、すでにニューヨークで夢破れた若者。アメリカンニューシネマ(最近覚えた言葉なので使いたい)は、厳しい現実に夢破れていく若者の姿を描いているのだけれど、終始暗いわけではないところが好き。どん底ながらもひょうひょうとなんとかやりくりして暮らしている二人の姿には、アメリカンニューシネマ(実あんまりよくわかっていない)ならではのユーモアが漂っている。ただで洗濯する方法とか、勝手に靴を磨いているうちにどんどん人が集まってきてしまうところとか、すごく好き。二人が夢を夢見て宙ぶらりんで暮らしているうちは精一杯の生活にも張りがあるけれど、ジョーがジゴロとしての一歩を踏み出しリコが本格的に体を壊すと、微妙なバランスが崩れて一気に雰囲気が悲壮になるところがおもしろいなーと思った。二人を取り巻く状況自体はあまり変わっていないのに、それでも何かが決定的壊れてしまい、それは元に戻らない。
 リコがフロリダでの生活を妄想する場面が好き。リコのコンプレックスはすべて他人に投影されて、リコ自身はジョーと浜辺を駆け巡る。かっこいい自分マイラブ。一方、ジョーのイヤな過去のフラッシュバックに、出会ったばかりのリコが意味ありげに挿入されているところもおもしろいね。ジョーが再洗礼派(浸洗礼派?)の儀式で川に鎮められている場面は、フラナリー・オコナーの描くアメリカ南部のディープなキリスト教の世界を連想させる。
 最後、死にかけたリコといっしょにマイアミ行きのバスに乗ったジョーが、カウボーイの服を捨てているところが印象的だった。ジゴロをするために見せびらかすように着ていたカウボーイルックは、金持ちのおばさんではなくホモばかりを集めていた。ジゴロを止めて真面目に働くということじゃろか? でもリコは死んでしまう。
 リコがジョーを封鎖されているアパートに呼んでいっしょに暮らすところとか、二人で組んでジゴロを始めるところを見て、古谷実僕といっしょ』を思い出した。
 ダスティン・ホフマンはちっちゃいなー。それともジョン・ヴォイトがでかいんじゃろか?
 なんで『真夜中のカウボーイ』じゃなくて『真夜中のカーボーイ』なんじゃろか? 『真夜中』なのは、『真夜中の天使』からの伝統なんじゃよねー(たぶん逆)