若島正編『モーフィー時計の午前零時』 国書刊行会

モーフィー時計の午前零時

モーフィー時計の午前零時

ゲームを題材にした小説が大好きなのに、ゲームはまったく出来ないリトルおろかなわし。将棋やチェスは言うに及ばず、『モノポリー』や『カタン』みたいなボードゲームも、『ぷよぷよ』『もじぴったん』みたいな対戦パズルゲームも、単純なプログラム相手のウォーシミュレーションや恋愛シミュレーションすら苦手なの。なんとゆうか、「相手の指し手を読む」とゆうゲームの根本が出来ない子なんじゃよね。

ナボコフ『ディフェンス』やキャロル『鏡の国のアリス』を読んで以来チェス小説も大好物なのだけれど、駒の動かし方もルールもサッパリわからず、とりあえずかっこよく相手を追い詰めて「チェックメイト」と言ってみたいにゃー。常に追い詰められいる人生ですが。わかりやすいですか?

そんな僕がチェス小説が好きなのは、小説全体に横溢するチェスのルールと、盤面という世界の果てが、行間から否応なく匂い立つのがなんとなくわかるから。ルールがわかってもわからなくても、なんだかよくわからんルールに縛られる明晰さと理不尽さに惹かれる。

ルールとはこの曖昧模糊とした世界をとりあえずなんとか解釈するための方法であり、世界を「チェス」とゆうルールで解釈したとき、このアンソロジーに収められた世界は確実に現出する。

フリッツ・ライバー『モーフィー時計の午前零時』 チェスマニヤにならすぐにわかる目配せが散りばめられた一編がチェスの門外漢にはつまらないのかというとそんなことはなくて、門外漢にはサッパリ意味がわからんなりに、様々なマニヤ受けのガジェットが巧妙に配置され、意図不明の布石の数々が妙な緊張感をもたらすことに成功しているので(馬鹿は馬鹿なりに、意味はわからんが、地面の膨らみで地雷みたいなものがあるのは予想できるのだ)、馬鹿なら馬鹿なりに楽しめる立派なエンタテイメントに仕上げているからすごい。作者ライバーの手並みよりも、むしろ、実在の人物や道具からこんな話を捏造して、なにかしらの説得力(小説とゆう枠組みを承知して、なおかつ)を持たせてしまうチェスの神秘性と奥深さに感服してみた。

ヘンリイ・スレッサー『毒を盛られたポーン』「通信対局」を題材にした作品はこのアンソロジーにいくつか採られているけど、それぞれ趣が違って楽しい。目の前に存在しない対局者を巡る物語は、チェスの盤外に必要以上に思考が飛んでしまって楽しすぎる。通信対局を利用して代理戦を仕組んだ主人公の狡猾さと、予想だにしなかった間抜けなオチが、冒頭と〆で見事に交錯して楽しい。

ジャック・リッチー『みんなで抗議を!』 「通信対局」の変化球。そのつもりがないのに通信対局をしていた語り手が、見事に対局相手のコンビネーションにはめられていく様子が手に取るように分かって楽しすぎる。アルバート、うしろうしろー!そもそも、語り手が本当の対局相手さえまともに認識してなかったのがおもしろすぎる。

フレドリック・ブラウンシャム猫』チェス小説と言われると首を傾げざるを得ないのだけれど、語り手の頭の良さと、それを裏切る頭のおかしさの関係はおもしろい。相手の指す手を読みあうのがチェスの醍醐味ならば、一方が完全に狂っていれば、緊密な読み合いのすべては悲しい茶番劇に成り果てる。

ジーン・ウルフ『素晴らしき真鍮自動チェス機械』 ポー『メルツェルの将棋指し』の神秘性と種明かし、それに種明かしされたあとにも残る曖昧模糊とした筆舌に尽くしがたい感情を知っているなら、誰でも楽しめるはず。自動人形の影に人力の仕掛けがあったとして、過去に自動人形が自動でなかったとは言い切れないのだ。

ロジャー・ゼラズニイユニコーン・ヴァリエーション』 チェスの駒めいた謎の動きをする謎生物とゆう謎導入から、こんなにも素敵に無邪気な物語が生まれてしまうからおそろしいぜ。幻獣同士の代理チェス戦がビールで和やかに進行するなんて素敵やん?ゼラズニイは雰囲気だけな作風だと揶揄されることもあるけど、いいじゃん、『影のジャック』も『ドリームマスター』も雰囲気かっこよかったし。

ヴィクター・コントスキー『必殺の新戦法』 チェスとゆうかゲームの達人は、美しい手順(それが主観的に芸術的であるか、客観的に実践的であるかは別にして)にこだわる節があるような気がするけれど、逆に破壊的に完膚なきまでに芸術/実践を踏みにじるような戦法を開発してしまうのがおもしろすぎる。つまり、ジャイアンリサイタルが全世界を席巻するとゆうことじゃろか。定跡=言語と見れば、ただひとつの言語で世界を破壊せしめるボルヘス的世界観はしかし、定跡とその変化がすべてを支配するチェスならば理解できないことはないのだ。

ウディ・アレン『ゴセッジ=ヴァーデビディアン往復書簡』 『羽根むしられて』だかで読んだ記憶が。「通信対局」は互いの誠実さをある程度信じねば実現されえず、見えない対局者が本当に想定している本人なのかとか様々な猜疑を抱えつつ対局が進行するところに醍醐味があるのだけれど、互いに猜疑心剥き出しで対局の書簡で公然と相手を非難しつつ無理やり自分有利にしようとするからおそろしいぜ。実際のチェスを知ってれば、互いの無茶加減がもっとよくわかるのかも。

ジュリアン・バーンズ『TDF チェス世界チャンピオン戦』 ノンフィクションらしいけれど、盤内盤外の様々なやりとりが楽しすぎる。熱く冷たい対象への入り込み具合は、ゴンゾー・ジャーナリズムを思い出させる(馬鹿はテキトーなことを言う)ジーン・シェパード『スカット・ファーカスと魔性のマライア』みたいな部外者の熱い視線は、当事者にしかわからない謎を謎のまま残す。

ティム・クラッペ『マスター・ヤコブソン』 「謎の対局者を巡る通信対局」を扱った短篇だけれど、短篇としての小さな仕掛けそのものより、その仕掛けを通じて見えてくる「チェスを職業に選んだ人間の業」が伺えるところがすごく好き。まったく理解できないけれど、マスター・ヤコブソンはそうやって生きてきたし、そうやって生きていくのだとゆう、どうしようもない説得力。

ジェイムズ・カプラン『去年の冬、マイアミで』 『マスター・ヤコブソン』にならなかったし、なれなかった人間の物語。ヤコブソンなら、去年の冬にマイアミでなにがあったのかわかるのかもしれない。勿論、わからないかもしれないし、わかる可能性はすさまじく低いだろう。しかし、語り手や僕に、去年の冬にマイアミでなにがあったのかが絶対にわからないことだけは確かなのだ。

ロード・ダンセイニ『プロブレム』 そもそも駒の動かし方すら知らないのに、純粋なチェスプロブレムなんざわかるわけがねー。どうでもよいです。