アドルフォ・ビオイ=カサーレス『モレルの発明』 水声社

モレルの発明 (フィクションの楽しみ)

モレルの発明 (フィクションの楽しみ)

ゲルハルト・ケップフ『ふくろうの眼』で触れられてたので再読。解説でも言ってるように、ボルヘスが「完璧な小説」と絶賛したのはお遊びとしての面が多分にあるにしても、楽しい小説には変わりない。再読だから仕掛けはわかっているのだけれど、わかっていたらわかってるなりにむしろ楽しすぎるのがいい。

不死を巡る実験というものすごい勢いでトンチキなお話を支えているのが、さらにトンチキで信用の出来なさすぎる語り手というのがすごくいい。ものすごい勢いで信用できないお話を物語る語り手は、ものすごい勢いで妄想癖がある上に、ものすごい勢いで孤独な環境にあり、ものすごい勢いでその辺の草花を食べるので、ものすごい勢いで幻覚に侵されている可能性が示唆されているからおそろしいぜ。およそまともな話としては信じ難い話を、くだくだしい説明で説得力を持たせるのではなく、徹底的に信用出来ない語り手を起用することで、ものすごい勢いでウヤムヤにしてしまう力業が素敵すぎる。

本人が永遠に生きるのではなく、特殊な映像が繰り返し再生され続けることで不死を得るという発想がすごくいい。手段と目的の逆転っぷりが狂った科学者の狂った実験に説得力を与えてるんじゃよねー。江戸川乱歩『パノラマ島奇譚』に似てるらしいんだけど、読んだことないからしらん。

繰り返される実物そっくりの映像を、それと気付かずに脅える逃亡者である語り手。映像に対して「今、その場に存在する人間」と同じように対処しようとしてものすごい勢いですれ違い、すれ違う違和感をものすごい勢いで妄想することで折り合いをつけようとする語り手の空回りっぷりがおもしろすぎる導入が、語り手も映像になることで映像の世界にすれ違いつつ上書きされるという、驚愕だが納得できすぎるオチに連なるのがすごくいい。フォスティーヌと語り手は、次に島を訪れる人から見たら同じ世界に生きているように見えるかもしれないが、フォスティーヌと語り手は永遠に生き続けるだけ永遠にすれ違い続ける。

『モレルの発明』における不死ってゆうか、語り手の最期の試みって、要するに『モレルの発明』とゆう既に完成され印刷された小説に、あとから手書きで「私」を書き加えることじゃよね? 念入りに書き加えるが元の『モレルの発明』自体には一切手を加えず、それでいて『モレルの発明』の登場人物たちと違和感なく絡んだり会話しているようにする。まったく新しい登場人物を追加し、お話を根本から変えつつ、削除はしない(できない)。