フィリップ・K・ディック『メアリと巨人』 筑摩書房

メアリと巨人

メアリと巨人

SF作家として知られているディックの非SF小説なのだけれど、SFだろうがなかろうが、ディックの小説はディックにしか書けないディックなお話になってしまうので、つまり『メアリと巨人』もまごうことなくディックすぎる。

ディックは、同じモチーフを別の作品で形を変えて何度でも使う作家であり、ワンパターンといえばワンパターンなのだけれど、その時々でどんな使い方をしているのか、過去に読んだ別の作品の記憶が呼び醒まされて楽しいね。

この小説で気になるのは、「人間から見れば神の如き超越者と、ちっぽけな人間の関係」。『銀河の壷直し』でのグリマング、『ドクター・ブラッドマネー』でのデンジャーフィールドのように、ディックの小説には何でも出来そうで実際には無力な、それでももっと無力な人間たちを慈しむ上位存在が出てくる。人間からしたら羨むような上位存在が思い悩んでいて、上位存在に頼りきるだけだった人間がやがて上位存在の苦悩に気付き同情する。ディックにとっての神は、「人間を愛していて人間を助けたいが、なんか色々あって無力な存在」みたい。現実世界で自分たちを助けてくれない神(全知全能なはずなのに!)に対して、ディックが考え出したディックなりの神学は、僕はわりと好き。

『メアリと巨人』は普通小説なので神みたいな超越者は出て来ない。代わりに「巨人」として大人たちが上位存在として描かれ、「メアリ」は無力な子供として描かれることで、神と人間の関係を暗合させているみたい。他の作品では壮大なスケールで語っていた話が、カルフォルニアの片田舎の話に取り澪すことなく収まっているのがおもしろすぎる。ディックはいつだって小さな場所で大騒ぎするのだ。

無力な人間であり、子供の代表メアリアンの行動は支離滅裂すぎるが、支離滅裂なりにわからんでもない。何かをしたい、どうにかしたいと居を変え職を変え続けるメアリアンは、何をするにも巨人=大人の力を借りなければいけないことに苛立っている。メアリアンは何でも自分でやりたいが、自分では何も出来ない。大人たちがその都度救いの手をさしのべるが、頼ることに耐えられずに拒絶する。

巨人=大人も大変だ。大人たちは誰しもが自分の出来る範囲でメアリアンを助けようとするが、メアリアンはどんな救いの手もはねのけてしまう。メアリアンは大人に「なんとかしてよ。なんでも出来るんでしょ!」と詰め寄るが、大人たちはメアリアンをどうしてあげたらいいのかわからない。大人は大人で忙しいし悩みもあるし、どうしていいのかわからない。

どうしたいのかわからない子供=人間と、そんな人間をどうしてあげたらいいのかわからない大人=神の関係って、『パーマーエルドリッチの三つの聖痕』じゃよね。どうしたらいいのかわからない者同士のてんやわんやを描くディックの視線はとても優しい。だからディックの小説が好きなんだと思う。

「新しいレコードのジャンルを客に紹介したら、店員は責任を持って客を導かなければいけない」というセリフが好き。大人は、メアリアンの新しいレコード=新しい生活の世話を焼くことは出来なかったが、新しい生活を見せて示唆することは出来た。無力な神をディックは糾弾しない。