デス・プルーフ・イン・グラインドハウス

世の中には二種類の人間がいる。見た映画の総量に拠らず、まじめに映画が好きな人間と、まじめに映画が好きなのになんかちょっとずれちゃった人間だ。

タランティーノの映画が好きな人間って、なんだかんだで後者だと思う。B級とかグラインドハウスとかブラックスプロイテーションとか、なんかよくわからんマニヤ的言辞に頼らずとも、ただなんかもう、タランティーノ的に偏っちゃった映画を知らず知らずに愛してしまう。タランティーノは幾多の映画をタランティーノフィルターに通して編集し、タランティーノ映画にしてしまう。あらゆる文字を自らのフィルターに通して自作にしてしまうボルヘスにちょっと似ていると思う。あらゆる文学はボルヘス的か非ボルヘス的かに分類され、あらゆる映画はタランティーノ的か非タランティーノ的に分類されるのだ。のだ。

かっこよさでは『パルプ・フィクション』や『レザボア・ドッグス』が好きだし、完成度では『ジャッキー・ブラウン』が一番いいと思いながら、『キル・ビル』を見てうっかり泣いてしまうのは、タランティーノの描く映画世界に「大好きな映画の世界」の地平が見えてしまうからだと言い切れる。だから、タランティーノ製作で新人監督のショボい映画も、なんか憎みきれないんじゃよねー。『フェティッシュ』とか『キリング・ゾーイ』とか。端的に言えば、『フォー・ルームス』を、『南部から来た男』の落ち→スタッフロールだけですべて許せるかどうかだけなのかもしれない。

カート・ラッセル大活躍なところとか(前半のキチガイ殺人鬼の迫力はどこへやら、バーボンを「ブーッ!」って吹きだしたあとからがおもしろすぎた)、素晴らしすぎる選曲センス(エンディングの"Chick Habit"が気持ちよすぎる)やら、気持ちよかったところを挙げるのに暇はないのだけれど、要するに、なんか全体的にタランティーノはわかっちゃってる。