西尾維新『ネコソギラジカル』上中下 講談社ノベルス

上巻を読んだのが二年と半年ほど前。
http://www.h2.dion.ne.jp/~vain/book/log/200502.html#15_t1

縁あって改めて上巻、そして中下と読み進んで、あれれと思うような横滑りとか、でもいいのホントにそれで?という展開を乗り越えて、今思うのは、とにかくちゃんと終わってよかった。めでたし、めでたし。

あまり好きになれなかった西尾維新戯言遣いシリーズだけど、どうにもこうにもなにかが引っかかるのは、大好きだった(今も好きなのかもしれない)ゲーム、『高機動幻想ガンパレード・マーチ』を思い起こさせるところが多々あるからに違いない。

ガンパレ』も『戯言シリーズ』も、言うなれば後出し設定のオンパレードだったんじゃよねー。『ガンパレ』での平凡な学徒兵の学校(戦場)生活が大好きだった僕に、後から後から沸いて出る裏設定(世界の謎)がどれだけ鬱陶しかったか。『戯言シリーズ』で巻が進めば進むほど沸いてくる超人的セカイ系設定と微妙に重なるんじゃよねー。ただの人たちが一所懸命頑張って、なんとかかんとかどうにもならないセカイ(身の回り)をどうにかしようとしてるところがいいのに、『ガンパレ』も『戯言遣いシリーズ』も、安易に「実は普通の人に見えても、そんなこんなでセカイを変えるだけの力を持つ超人でしたー!!」と言ってしまうのがつらかった。

それでもやっぱり『ガンパレ』が好きなのは、超人たちが「実は超人だった」と明かされたあとでも、普通の人たちと同じかそれ以上に一所懸命に頑張ってセカイを変えようとするからで、『戯言遣いシリーズ』を最後の最後に嫌いになれないのも、超人たちが超人たちとは思えないような「普通の人と同じような」頑張り方をするからかもしれないなーと思った。セカイ的に絶望的な状況から、なりふりかまわず普通のハッピーエンドを選び取った「いーくん」のことを、『ガンパレ』の名台詞で表すならば、「ハッピーエンドを取り返しに来た」ってことじゃろかー。

どんな人間にも他人には見えない/見せない「裏設定」とか「隠し要素」はあるわけで、そうゆうのを隠したり隠さなかったりしてそれぞれそれなりに日常生活を頑張ったり頑張らなかったりしているのであろうなあ、と思うと、『ガンパレ』や『戯言遣いシリーズ』がものすごく愛おしく思える。