スティーヴン・ミルハウザー『ナイフ投げ師』 白水社

ナイフ投げ師

ナイフ投げ師

ミルハウザーの小説は、あんまり小説っぽくない。胡散臭い物事があって、その成り立ちとか意味を解説するようような体裁なんだけれど、実はなにも解説してないところがいい。

語り手が思い入れたっぷりに解説する「それ」、暗がりに胡散臭く存在する「それ」は、実はそんなにすごいものではないのかもしれない。でもミルハウザーは胡散臭い「それ」に光をあてて解釈するふりをして、別の暗がりのベールをかける。仄めかし、明言しない。果たして本当にそうなのか、本当はそうじゃないのか、はっきりしないところが素敵すぎる。

『ナイフ投げ師』 人間にナイフを当ててしまうのは芸としては失敗のはずなのに、当てちゃうことが芸術に高められてしまうからおそろしいぜ。観客は当たる寸前で外されるナイフ、という折り込み済みの芸を見に来たはずが、なんかとんでもないものに立ち会わされるハメになる。舞台の上で行われているのがトリックなのか、公開殺人なのか、わからないままなところがすばらしすぎる。

『ある訪問』 友人に会いに行ったら、紹介された友人の妻が蛙だったというトンチキな話。こんなトンチキな話が終始しっとりした雰囲気なのがおそろしいぜ。友人には友人の、「私」には「私」の生活があるところがすごくいい。

『夜の姉妹団』 沈黙の誓いを立てた秘密結社の目的が、沈黙そのものだったという手段と目的の一致が美しすぎる。夜の姉妹団に入りてー。もしくはマッセナ団(長谷川哲也『ナポレオン』参照)。

『出口』 夫ある女を寝取ったら、あれよあれよという間に決闘に持ち込まれてギャワー。カフカ『審判』とかナボコフ『名誉の問題』のような不条理さでものすごい勢いで決闘にさせられてしまうのが嫌すぎる。

『空飛ぶ絨毯』 「空飛ぶ絨毯」というアラビアンナイトな小道具が、アメリカ人の子供時代の感傷的な玩具として扱われているのがおもしろすぎる。そうだよねー、アメリカ人なら、子供のころ誰でも空飛ぶ絨毯くらい持ってたよねー。

『新自動人形劇場』 完璧と思われた芸術が禁断の一歩を踏み出すことによる不安と混乱であり、まさにミルハウザーの真骨頂じゃろかー。完璧に人間を真似る自動人形から、自動人形としか思えない動きの自動人形を創造することはまったく正しい。人間に限りなく近づくことによってではなく、人間の姿を真似ながら人間以外であること、それが自動人形なのだと言い切れる。

『月の光』 月の光の下の野球というシチュエーションが素敵すぎる。

『協会の夢』 目眩るめく百貨店の偉容は、『パラダイス・パーク』といっしょになって長篇『マーティン・ドレスラーの夢』に結実するのだけれど、純粋に顧客の欲望を商品化している素晴らしい百貨店の内容を列挙するだけのこの短篇も好ましい。

『気球飛行、一八七0年』普仏戦争の最中に気球で脱出という、背っ羽詰まっているのか呑気なんだか分からん状況で、思考がドンドン浮き世離れしてゆくのはわからんでもないにゃー。

『パラダイス・パーク』 『協会の夢』と合わせて長篇『マーティン・ドレスラーの夢』になる短篇。夢のような遊園地が夢に沈み、現実に経営が立ち行かなくなるところがミルハウザーにはあんまりないような気がする。「安全な危険」「日常に帰れる非日常」が遊園地に求められているのだとしたら、安全と危険、日常と非日常が溶けあってしまった先にあるものを、夢そのものを人は受け入れられないのかにゃー。

『カスパー・ハウザーは語る』 フォイエルバッハ『カスパー・ハウザー』を読んだあとだと不思議な気持ち。カスパーの望みはカスパーでなくなること、物珍しさでカスパーを見に来る聴衆の一人になることだというのは、武田泰淳ひかりごけ』の裁判のシーンの逆みたい。

『私たちの町の地下室の下』街の地下に無数の地下道があるって素敵やん?地下道そのものが素敵なんじゃなくて、町と地下道を登り降りすること自体が素敵なのだと結論づけているところが素敵すぎる。かつて『アリスは、落ちながら』で、『不思議の国のアリス』の冒険の本質は、冒頭の落下にすべて凝縮されていると言っていたのを思い出す。あと、『ベイグラント・ストーリー』のレアモンデみたいな町なんだろうなと思った。