サド『ジェローム神父』 平凡社

元はサドの著作を澁澤龍彦が抄訳したものであり、(いわゆる澁澤訳のサドの著作はすべて抄訳らしいのだけれど、澁澤の妙技で剪定されたサドはおもしろいからちっとも困らない)、抄訳からさらに抄録しているみたい。『美徳の不幸』か『新ジュスティーヌ』のどっちかの一エピソードらしいのだけれど、どっちも読んだはずなのにまるっきりちっともまったくさっぱり覚えていないのでビックリしますね。

散々ものすごくひどいことをしでかしたあとで「自然とはそもそも…」と既存の道徳への挑戦(あるいは言い訳)めいた戯言が続くのはいつものサドであり、そんなどーでもいい哲学はわりとどーでもよい。

サドの最高傑作は、なんの説明も言い訳もなしでひたすら残虐行為展覧会を繰り広げる『ソドム百二十日』であることは確実なので、むしろ『悪徳の栄え』や『美徳の不幸』にみられるような、残虐行為に対するサドの説明というか言い訳というか哲学開陳は邪魔でしかない。『ソドム百二十日』が真に偉大なのは、あらゆる残虐行為に何の説明もなく、ひたすら行為そのものだけを列挙して、その底知れぬ中身のなさを見せつけたことなのだ。高橋源一郎せんせいが『ソドム百二十日』に恐怖したのは、サドの他の著作に見られる「哲学や思想」という名の言い訳が全然なく、作品すべてが窺い知れぬ「意味のない行為」によってのみ構成されているからだと言い切れる。

本編で行われる残虐行為とはまったくリンクしていない会田誠の美しくもおぞましいイラストは、サドが『ソドム百二十日』で見せようとした「哲学なき残虐行為」と美しく呼応する、会田誠の意味なく美しい残虐なイラストは、サド自身のくだくだしい「哲学」という名の言い訳から逃れ、軽々と空虚なサディズムの本質を表現し得たと言い切れる。